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身体との対話


身体との対話をおすすめしている理由は沢山ありますが、今日は詰まる所【身体と対話を重ねる】とはどういうことなのかを今のわたしの言葉にしてみようと思います。





身体との対話とは

【身体にとっての拠り所に「わたし」はなっているのかを推し測る行為】





無意識であっても身体には様々な刺激(情報)に反応し、呼応し、順応するために調整する力があります。


身体は「わたし」が依頼などせずとも、呼吸し血液を循環させ「生きる」上で必要なことを絶え間なく持続してくれています。


その無意識に調整されている身体をなおざりにしていると、次第に身体からの聲は聞こえないどころか、聴くことができなくなります。



不要だと判断すると身体はその機能を閉じていきます。

反対に丁寧に根気よく必要性を共有していくと機能は(時に構造も)開いていきます。



昨今は身体が聲を挙げることを諦め「感じる」ということを放棄している状態の人も増えています。とても危険な状態ですが、如何せんご本人は感じていない(感じる必要性や自分自身を軽視している)ので気づきようがないわけです。


その結果、残念なことに救急で運ばれたり、人格があまりにも変わったことで気づいた方が如実に増えています。




身体のことのみならず、あらゆる側面において大きな分岐点にあります。―


画一した感覚に統一し、自然の変化からの影響を受けないように排除し、即時的な快楽に興じ続けられるようにしていく社会か。


身体性を養い、自然の変化による恵みの循環を大切にしていく社会か。



実体を掴めないという実態に焦れったさを感じるのは、どこか信じること、信じた先で裏切られることが怖いからだろう。

しかし、信じるという行為には身体性なくして成り立たない。つまりは感じるということ。身体は「生きる」という行為において常に感じ反応している話を先程したが、その刺激(情報)を受け取った「わたし」が何も反応しないとしたらどうだろうか。意図的なのか否かを問わず無視し続けていたら…




「わたし」は「生きる」ことに無関心で「生きている」と言えるのだろうか。




人として敬意を払い尊重される(尊重する)ことを「わたし」自身が取り戻す必要があります。


「わたし」の感覚は他の誰でもない「わたしだけ」の感覚。


「わたし」以外の誰が尊重できるだろうか。




わからない、難しい…で放置している「あなた」は本当は何を望んでいるのだろうか。

対話の扉は開かれています。


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